佐野 仙好 (さの のりよし)
外野飛球を追いコンクリートフェンスに激突し頭蓋骨を骨折する重傷を負った選手である。田淵の頭部へのデットボールを機にメットに耳あてが設けられたのと同じく、このプレーを機に全12球団の球場のフェンスにラバーが張られる「きっかけ」をつくったことが印象的で、未だ記憶が薄れない存在になっている。
1951年(昭和26年)、群馬県高崎市生まれ。前橋工業高校の2年時に夏の甲子園に出場、その後中央大学に進み首位打者に輝くなどチームの優勝に貢献し、日米野球アメリカ遠征代表にも抜擢される注目選手として1973年(昭和48年)にドラフト1位でタイガースに入団する。
プロ入り後の4年間は掛布と三塁手のレギュラー争いをする内野手として活躍していたが、1977年(昭和52年)に外野手に転向。同年先述したアクシデントに見舞われるも翌年からレギュラーに定着し以降10年間勝負強い打撃を見せ常にほぼ全試合に出場、制定初年度の最多勝利打点のタイトルも獲得した。
しかし、若手の台頭などもあり徐々に出場機会が減り、1989年(平成元年)には現役生活に別れを告げる。引退後はそのままチームに留まり守備・走塁、打撃コーチ等を歴任、1998年(平成10年)からは現場を離れ編成部スカウトに就き、吉野誠、藤田太陽、中村泰広らを担当。今も新人発掘に力を注いでいる。
【 生涯通算成績 】(実働16年) 1549試合出場、1316安打、144本塁打、564打点、打率.273
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外野飛球を追いコンクリートフェンスに激突し頭蓋骨を骨折する重傷を負った選手である。田淵の頭部へのデットボールを機にメットに耳あてが設けられたのと同じく、このプレーを機に全12球団の球場のフェンスにラバーが張られる「きっかけ」をつくったことが印象的で、未だ記憶が薄れない存在になっている。

プロ入り後の4年間は掛布と三塁手のレギュラー争いをする内野手として活躍していたが、1977年(昭和52年)に外野手に転向。同年先述したアクシデントに見舞われるも翌年からレギュラーに定着し以降10年間勝負強い打撃を見せ常にほぼ全試合に出場、制定初年度の最多勝利打点のタイトルも獲得した。
しかし、若手の台頭などもあり徐々に出場機会が減り、1989年(平成元年)には現役生活に別れを告げる。引退後はそのままチームに留まり守備・走塁、打撃コーチ等を歴任、1998年(平成10年)からは現場を離れ編成部スカウトに就き、吉野誠、藤田太陽、中村泰広らを担当。今も新人発掘に力を注いでいる。
【 生涯通算成績 】(実働16年) 1549試合出場、1316安打、144本塁打、564打点、打率.273
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