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亀山 努 (かめやま つとむ)

天気が良かったので陽に当ててやろうとベランダに出した数時間のことである。2年前神社の祭りですくい、娘が手塩にかけ育てていた「カメ」が忽然といなくなった。自力で脱出できるような水槽ではなかったため野良猫の仕業か、なかなか愛嬌のある奴だったので家族共々大いに落胆し未だに引きずっている。

亀山努「カメ」が行方不明になったということで、今回は優勝マジックを点灯させたタイガースのOBである“亀”山について触れてみようと思う。(なーんやそれ) 気合漲る全力プレーが売り物でミスターヘッドスライディングと呼ばれ、ほんの一瞬ながら大きな輝きを放った選手であった。

1969年(昭和44年)、大阪府大阪市生まれ。鹿屋中央高校から不合格となったが双子の弟・忍(のちにタレント)と共に入団テストを受け合格し、1988年(昭和63年)にドラフト外でタイガースに入団する。当初三塁手であったが、外野手へコンバートされ5年目の1992年(平成4年)にレギュラーに定着、131試合に出場し、最後まで優勝争いを演じるチームの躍進に貢献した。

しかし、酷なプレースタイルが故に脱臼や骨折などの故障が絶えず、1997年(平成9年)に戦力外を言い渡され、その後バファローズ(近鉄)の入団テストを受けるも合格ならず28歳の若さでユニホームを脱いだ。引退後はタレントに転身する傍ら少年野球チーム・枚方リトルの監督に就任し世界大会で優勝。2001年より マスターズリーグ・大阪ロマンズに参加している。

【 生涯通算成績 】(実働8年) 377試合出場、291安打、14本塁打、72打点、打率.265

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ブログの更新率の低下に比例し札幌ドームへ向かう足も昨季より大幅に減っている。それでも「行けば勝利する」という巡り合わせから旨い事ストレスも解消でき心地よい満足感を味わい続けてきたけれど、残念ながらその運もプツりと途絶え、今季観戦10試合目にしてついに“初黒星”を喫してしまった。

ダル、五輪前最終登板北海道シリーズと称した6連戦中。昨年同様限定ユニホームが販売されており、当日まで全然気にも留めていなかったが、何の気なしに覗いた売店にボクにとって魅力のLLに匹敵するOサイズがまだ並んでいるのを発見し勇んで購入、颯爽とまといスタンドに降り立った。

席に着くや否や満塁弾で辺りは悲鳴に包まれ、その裏無死一、二塁で稲葉の大飛球を大松が捕球し二走の工藤が併殺されるがフェンスに当たってからの捕球として梨田監督が猛抗議するも判定は覆らず。ビデオチェックできれば誤審は明らかだっただけに、その後何度となく潰した好機以上に悔やまれる。

遅れてD社のUさん、Sくん、Tさんが合流し一緒に応援するが、プロ入り最多の165球にも及ぶダルビッシュの熱投は最後まで報われぬままに…。しかし、気概を示す姿勢はさすがエース、制球が乱れながらも要所を締めたピッチングは北京への不安を全く感じさせないものだった。いや、ボクにはそう映った。

「頑張れ、ダルビッシュ!」。この憂さは日本の期待を一身に背負った大舞台でスカッと晴らしてくれるに違いない。

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北京五輪の精鋭24人が選ばれる陰で、野茂の引退が明らかになった。現在、14人にも及ぶ日本人メジャーリーガーが隆盛を迎えられているのも、道筋を築いてきたパイオニアの存在があったからこそ。その後に続いた選手たちはその恩恵を受けているといっても過言ではなく、野茂の残した功績は計り知れない。

野茂、引退

史上最多の8球団から指名を受け1年目から主要タイトルを総ナメにし4年連続最多勝に輝くなどの実績を引っ提げ、1995年にバファローズから任意引退扱いで渡米。史上4人目となる両リーグでのノーヒットノーラン、日本人選手としての初アーチ、日米通算200勝など、重ねた数々の活躍は周知の事実だ。

入団時から決意していた「ボロボロになっても納得するまで野球を続ける」という強い想いを受け入れる先もついに途絶え、燃え尽きぬままの引退となったが、ここ数年の結果を見れば確かに潮時かもしれない。栄光と挫折を繰り返し得た経験を できる事なら今後、プロ野球のために活かして欲しいものである。

ちょいとばかり先になるけど、もしボクに男の子の孫ができ その子にメジャーについて語る機会があれば、野球の知識がいささか乏しい子供たちに変わり まず真っ先にこの男の話しを聞かせてやろう思う。 「野茂英雄」―。世界を席巻したトルネードと呼ばれる豪快な投法を擁す偉大な投手がいたことを…。

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全国で熱戦の火蓋が切られ、今、自分と同世代の元プロ野球選手の子供たちが父の背中を追うように甲子園という檜舞台を目指している。残念ながら過去同じ環境にある大半の二世選手が地方予選で姿を消し、その後話題にすら上がらず忘れ去られて行くケースが多いが、さて、この2人はどーだろうか。

桑田Jr2人とは、元ジャイアンツの桑田のJr.で桜美林高の真樹(1年)と香田のJr.、東海大翔洋高の将平(3年)である。桑田Jr.は中3で関東選抜に選出され、進学後は入部するや練習でサク越えを連発、父と同じく1年で98人の部員の中からベンチ入りを果たした長距離打者だ。

香田Jr.一方、香田Jr.は投手として入部するも最後の夏は外野手に専念。初戦の藤枝東戦では気を吐き2安打を含む全打席で出塁する活躍を見せ、チームの中軸を担っている。互いの父親のコメントを読むに本人がプレーしていた時よりも緊張したようで微笑ましい親心が伺える。

憧れの球児たちがいつの間にか年下になり、悲しいかなあっちゅー間に自分の子供と同じ年齢の選手がグラウンドに立つようになってしまった。「時代はこうして引き継がれていくのだなぁ」と妙に感慨深い。偉大な父親超えはなるか、甲子園もさることながら目標とするプロ入りを夢見、頑張って欲しいものである。

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和田 豊 (わだ ゆたか)

タイガースが強い。交流戦でも優勝争いを演じその後も勢いを一向に緩めない。2003年に次ぐ球団史上2位のスピードで50勝に到達しCSへの進出マジックを早くも点灯してしまう程の快進撃を続けている。そこで今回は藤田平、吉田義男に次ぐチーム史上3位の通算1739安打を残したOB選手を紹介する。

和田豊1962年(昭和37年)、千葉県松戸市生まれ。我孫子高時代は1年で夏の甲子園の舞台を踏みその後日大に進学。1984年(昭和59年)にはロサンゼルス五輪野球日本代表として金メダルを獲得し同年秋のドラフト会議で3位指名され、引退した藤田平の背番号「6」を引き継いだ。

1年目からシーズン途中で1軍に昇格すると控えの内野手として初の日本一に貢献すると、4年目の1988年(昭和63年)に就任した村山監督に遊撃手のレギュラーに抜擢され当時の日本記録を更新する56犠打を記録。翌年にも最多犠打をマークし、繋ぎに役に徹するチームになくてはならない中心選手となる。

1993、94年(平成5、6年)には2年連続、その後も2度の計4度の3割を残し、守っては1992年(平成4年)から3年連続しゴールデングラブ賞を受賞した。2001年に選手兼任で打撃コーチに就任するも両立できずこの年限りで現役を引退。翌年から専任となり、2軍総合コーチなどを経て現在は1軍の内野守備走塁コーチに就き、優勝へ突き進む岡田タイガースを支えている。

【 生涯通算成績 】(実働17年) 1713試合出場、1739安打、29本塁打、403打点、打率.291

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藤原 満 (ふじわら みつる)

闘志溢れる守備とバッティングで南海ホークスの斬り込み隊長として一時代を築いた選手である。タイ・カッブが使用していた「すりこぎバット」を愛用し、漫画「あぶさん」では主人公 景浦の良き理解者として登場。プロボクサーのチャチャイ・チオノイに似ている事から「チャイ」と呼ばれナインから親しまれていた。

藤原満1946年(昭和21年)、愛媛県生まれ。松山商から近畿大へ進み有藤(のちにオリオンズ監督)と三遊間を組み打っては三番に座り典型的な長中距離打者として活躍し1968年(昭和43年)のドラフト会議で“法政大三羽烏”の一人、富田に注目が集まる中4位でホークスに入団する。

1年目から主に守備・走塁要員として起用されるが、1973年(昭和48年)に128試合に出場し三塁に定着すると1975年(昭和50年)より8年連続でシーズン100安打以上を記録。1976年(昭和51年)には打率.302、50盗塁の成績を残しベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得し、その後も3度3割をマークした。

しかし、1982年(昭和57年)に125試合に出場し122安打を放ちながらこの年限りで突然ユニホームを脱ぎ後進にポストを譲る。引退後はチームに止まりヘッドコーチ・守備走塁コーチ、ダイエーに球団譲渡後も二軍監督、守備走塁コーチ、編成部スカウトなどを歴任し退団。現在は野球解説者に就いている。

【 生涯通算成績 】(実働14年) 1354試合出場、1334安打、65本塁打、413打点、打率.278、最多安打2回

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