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ダルビッシュの粘投で辛くも同一カード3連敗を免れたファイターズ。背中にマリーンズとホークスの足音が除々に近づき穏やかじゃない。勝手に2勝1敗を目論んでいたイーグルス戦だったけど、個人的にエールを贈って止まない選手の活躍にやられた感もあり、悔しさの中にちょいとばかり嬉しさも入り混じる。

なるか、山崎の2冠王その選手とは長くは続かないと一部で揶揄されながらも開幕から安定したアーチを積み重ねる山崎武だ。どーもこの歳になると自分に近いベテラン選手に肩入れしたくなり一日でも長く、悔いが残らぬ現役生活を送れるよう切に願いたくなる。山崎もそんな一人なのである。

先日、敬遠気味の四球に苛立ったローズがノムさんに対し「バカ」を連呼したが、「そんなバカ、相手にしていられない。最下位争いしている2チームがみっともない」とうっちゃり、ファイターズの陽が打撃理論などを学びたいと求めれば快く具体的に助言する等、贔屓目のせいか人間性も魅力に感じてしまう。

残り30試合を切った現時点で打率は.262とリーグ28位の成績ながら、本塁打40本 (ローズは38本)、打点93 (ローズは85打点)で僅差ながら目下2冠王をひた走っている。最後まで目が離せないデットヒートが繰り広げられそうだが、堂々と先にテープを切って欲しいものだ。21年目・38歳のベテランのあの憎めず屈託のない最高の笑顔が見られる事を大いに期待したい。

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渡辺 秀武 (わたなべ ひでたけ)

また一人往年のプレーヤーが亡くなられた。子供心に「何でなん?」と思っていたが、強面の風貌とは似つかわしくない「メリーちゃん」の愛称で長く親しまれていた選手だ。羊(=メリー)以外に当時バヤリースオレンジジュースのCMに出ていた同名のチンパンジーに似ていた事から付けられたという説も残っている。

渡辺秀武1941年(昭和16年)、静岡県生まれ。富士高校から日本軽金属を経て、1963年(昭和38年)にジャイアンツに入団。1年目こそ気弱な性格も表れ1軍での登板はなくその後も2軍を主とする生活を送っていたが、1966年(昭和41年)に杉浦を真似、下手投げにしてから頭角を現す。

同年いきなり13勝を挙げ結果を出すと翌年も再び13勝を重ねる。1970年(昭和45年)にはカープを相手にノーヒットノーランを達成、23勝をマークするなど堀内、高橋一三らと共に主力投手として活躍していたが、1973年(昭和48年)に日拓フライヤーズに移籍し、その後もオリオンズ、ホエールズと渡り歩いた。

1978年(昭和53年)、古葉監督の熱心な誘いもあり、金田と共に望月・剣持・平田との交換トレードでカープに移籍。江夏に繋ぐ中継ぎ役として連続日本一に貢献する。1982年(昭和57年)に現役を退き、そのまま同球団のスカウトに就き川端、長冨、山内、澤崎、最近では新井や栗原らの獲得に力を注いだ。昨年勇退し球界を離れていたが、一昨日帰らぬ人となった。

【 生涯通算成績 】(実働17年) 606試合登板、118勝100敗、8S、防御率3.35

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加藤 初 (かとう はじめ)

根はひょうきんな一面を持つ性格であるにも関わらず、どんなに苦しい場面でも冷静沈着に感情を表に出さないポーカーフェイスを貫いていたために「鉄仮面」という愛称で呼ばれていた。張本同様、球団史上初となる最下位に沈んだジャイアンツを翌年一気にリーグ優勝まで導いた救世主の一人である。

加藤初1949年(昭和24年)、静岡県富士市生まれ。吉原商業高から亜細亜大に進むが僅か1年で中退すると大昭和製紙吉原を経て1971年(昭和46年)、ドラフト外でライオンズ(西鉄)に入団、1年目から48試合に登板しチームが低迷する環境ながら17勝を挙げ見事新人王に輝いた。

4年間東尾らと先発の一角を任されていたが、1976年(昭和51年)にジャイアンツに移籍。4月のカープ戦でノーヒットノーランの快挙を成し遂げるなど、このシーズン15勝し最優秀勝率のタイトルを獲得すると共に長嶋ジャイアンツのV1に貢献した。しかし翌年はケガに悩まされ13試合の登板で4勝に終わる。

それ以降は、先発、中継ぎで長年に渡り投手陣を支え1990年(平成2年)に現役を引退。解説者の後1995年(平成7年)からはライオンズのコーチに就任し一時はフロント入りするが退団、その後台湾のLa Newベアーズ、韓国のSKワイバーンズでコーチを経験し昨季までLGツインズで投手インストラクターを務めていたが今季より再びワイバーンズのコーチに就いている。

【 生涯通算成績 】(実働19年) 490試合登板、141勝113敗、22S、防御率3.50、新人王、最優秀勝率1回

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仕事帰り真っ直ぐ札幌ドームに足を運んだため1日遅い情報になってしまったが、昨日「ハイッ、これで夏も終わりですっ」と肩を叩かれたかのように甲子園の熱戦が幕を降ろしてしまった。楽しかった祭りの後の静けさとでも言―ましょうか、毎年どーもこのタイミングが苦手でならず未だに軽い感傷に浸っている。

佐賀北、頂点へ

「そう簡単に行かないわなぁ」と思いながらも僅かに“4年連続決勝進出”を期待していた駒大苫小牧が決勝まで進んだ広陵に初戦で敗れ、いささかテンションが下がった大会になったけど そこは大好きな夏の甲子園、時間の許すかぎり『熱闘甲子園』などを交え、最後まで幾度となくその戦況にのめり込んだ。

さて、出場2度目にして一気に頂上まで駆け上がった佐賀北の戦いぶりは見事の一言だったなぁ。引き分け再試合を制し、この夏一番の試合数7試合73イニング16時間強を戦い抜き栄冠を手にしたのだからアッパレだ。あげくに最後に史上初の快挙となる「逆転満塁弾」勝利のおまけつき、正にミラクルである。

ナイン全員が地元出身いという、これこそ郷土の誇りと呼べる純血集団。特待生問題を含めた高校野球の在り方が問われた夏にチーム内に中学時代硬式を経験した者が存在しないという公立の普通校に深紅の大旗が渡ったところが何とも感慨深く清々しい。また記憶に残る決勝戦が頭の中に深く刻まれた。

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大会開幕前に行われる組み合わせ抽選を観る度に、かつて北海道の代表に当たったチームから沸いた歓喜にも似た声や拍手が苦い記憶として蘇る。鼻から対戦相手に舐められ、雪による練習不足や暑さを理由に“善戦・惜敗”扱いを繰り返す地元のニュースに辟易し、何度うな垂れた事か数え切れない。

香田監督退任「生きている間に優勝旗が津軽海峡を渡りゃしないわなぁ」などと半ば本気で話していたけど、それを見事に覆してくれたのが駒大苫小牧ナインであり、香田監督だった。一度ならず二度までも、そして三度目の期待さえ持たせてくれたのだからその功績はホント計り知れない。

夢を一途に追い求めた常勝チーム育成への重荷や部員の飲酒・喫煙の発覚なども併せ予てから心身共に疲れ果てていた事が原因での退任。道内外のライバル校や関係者、イーグルスに進んだ田中などから驚きや惜しむ声が広がっている。後任監督には同校野球部のOBでもある茂木氏が就任するようだ。

自身、選手として佐賀商で春夏3度甲子園に出場。1994年(平成6年)には母校のコーチに就き全国制覇も経験している。その蓄積された財産は甲子園出場はおろか優勝の二文字を信じて疑わない強いメンタリティを形成した事は想像に容易い。高校野球史に初めて“北海道野球”の強さを植え付けてくれた功労者。またいつの日か檜舞台に返り咲いて欲しいものである。

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河埜 和正 (こうの かずまさ)

ボクが憧れていたプレーヤーの一人だ。V9メンバーの補強要員第1号として1軍に引き上げられ、黒江、広岡ら歴代の名手を凌ぎ、地味ながら16年間の長きに亘りジャイアンツのショートを守り抜いた選手である。首を突き出すような独特な格好からプレーする事から「カメ」というニックネームで呼ばれていた。

河埜和正1951年(昭和26年)、愛媛県八幡浜市生まれ。中学時代はバレーの名アタッカーとして鳴らし愛媛大会で優勝も経験するが、八幡浜工に進んだ2年の時に野球部に転部。短期の実動に関わらず高い素質を開花させ1969年(昭和44年)にドラフト6位でジャイアンツに入団する。

入団1、2年目は数試合だけ1軍を経験するが、3年目の1973年(昭和48年)に持ち前の「鉄砲肩」がファームで注目を集め再昇格。翌年より引退した黒江の後釜としてショートのポジションを獲得し、1974年(昭和49年)にはダイヤモンドグラブ賞を受賞、自己最高打率.294を記録した1977年(昭和52年)にはチームのリーグ優勝に大きく貢献しベストナインにも選ばれている。

1986年(昭和61年)、故障や若手の台頭などもあり僅か43試合の出場に終わると、この年限りでユニホームを脱ぎ退団。野球解説者を経て1990年(平成2年)よりジャイアンツの2軍コーチに就任し、一度解説者に復帰するも、2004年より再び2軍の守備・走塁コーチに就いている。通算115本塁打はジャイアンツの歴代遊撃手として広岡の残した117本に次ぐ記録である。

【 生涯通算成績 】(実働16年) 1430試合出場、1051安打、115本塁打、416打点、打率.251

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残り試合も40試合を切り、シーズンもいよいよ終盤にさしかかってきた。小笠原・新庄・岡島らの相次ぐ退団で戦力ダウンが必至の状態でのスタートとなり、開幕間もない頃は「無理だよ、ほーらなぁ」などと心ない輩の声をチラホラ耳にしたが、「ハッハハ」野球ちゅーのは、そんな単純なものではないのである。

稲葉、連日の活躍よもや今になって同じような戯言を口にする奴はいないだろう。Vロードをひた走るチームに見られる抜き出た強さを今一つ感じないが、かえってそれが真の底力を有する事を証明しているように思わせてくれる。「いやいや、頼もしいじゃないのぉ」と頬もすこぶる緩みっぱなしだ。

昨日、マリーンズを迎えての戦いが札幌ドームで行われ、ナイトゲームであるにも関わらず敢えて仕事を休み息子と2人応援に出かけた。鼻の穴をおっぴろげて乗り込み応援した甲斐もあって5-0と快勝。限定ユニホームをまとい、ビールは半額、焼き鳥の匂いもあちらこちらに仄かに漂う北海道シリーズと題したイベント効果も相まって、正に“祭り”のような賑わいだった。

今日は悲しいかな折角持っていたチケットを譲り終始PCでの経過チェックに。集中打で一度は試合をひっくり返すも惜しくも5-7と逆転負けを喫し連勝も8でストップしてしまったが、それでもクライマックスシリーズへの出場権はまだまだ揺るぎない。暑い夏が一瞬にして終わった北海道のごとく、「熱パ」に一足早い秋をもたらすような戦いを引き続き見せて欲しいものだ。

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北海道では至って珍しく、4日間連続30℃を優に超える猛暑が続いた。「暑い、暑い」などと言いつつも短い夏を堪能し「熱戦が続く甲子園観戦にはこーじゃなくっちゃぁ」と独り満足していたが、今日はまるで桑田のニュースがそうさせたかのように打って変わって雨が降り気温もグンと下がって随分過ごし易い。

桑田、パイレーツから戦力外通告高校時代から何かと「夏」に話題を振りまいて来た桑田らしく、奇しくも戦力外通告を受けた日も高校球児が白球を追い続けている大会最中の真夏。念願だったメジャーでの勝利は残念ながら果たす事ができなかったが、会見では目を赤らめながらも達成感を滲ませていた。

「こういう世界ですから仕方ない、ありがたいという気持ちですよ」。最初に出た言葉が球団への感謝の気持ちだったところが何とも桑田らしい。「もう十分、何も悔いはないです」と現役引退を示唆し笑顔さえ浮かべる姿を見ていると、当の本人より凹んでいるようで始末が悪いけど つい胸が熱くなってしまった。

応援してくれた関係者へ送るつもりか、パイレーツグッズを扱うショップから背番号「18」の入るTシャツを自ら800枚購入したらしいが、オールドルーキーとして約2ヶ月間の修行を終え、それとは比べ物にならない程の「経験」という抱えきれない大きな“手土産”を持って帰国する桑田。近い将来就くであろう指導者としての勇姿が今から待ち遠しい。長い間ご苦労さんでした。

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田中 幸雄 (たなか ゆきお)

4連敗の後に4連勝と幾分上昇ムード、明日からのホークス&マリーンズ6連戦もちょっぴり期待が持てそうだ。さて そのファィターズだけど、以前からチーム内に同姓の選手を何組か重ねる傾向にあるのだが、極めつけは今季2000本安打を達成した「田中幸雄」を同時期にもう一人(?)在籍させていた事である。

オオユキ、田中幸雄1959年(昭和34年)、千葉県流山市生まれ。流山高時代は投手に専念していたが、社会人野球の電電関東では遊撃手も経験。しかし、打者としての力量よりも長身から投げ下ろす角度のある投球の方が高く評価され1981年(昭和56年)ドラフト1位でファイターズに入団する。

1年目から1軍登録され5月に初勝利を挙げると5勝をマーク。1985年(昭和60年)には自己最多となる47試合に登板し6月のバファローズ戦ではノーヒットノーランを達成、生涯唯一の完封勝利を飾った。1990年(平成2年)には早川と共に藤王・小松崎との交換トレードでドラゴンズへ移籍するが、1軍に定着する事なく2年目の1991年(平成3年)限りでユニホームを脱いだ。

引退後はファイターズのスカウト、育成部、2001年より2軍の投手コーチを経て再びスカウトを務めたが、2005年に退団。今年から社会人野球のJFE東日本硬式野球部のコーチに就いている。5年後に入団してきたもう一人の幸雄より背が高かったため、チーム内では“オオユキ”というあだ名で呼ばれていた。

【 生涯通算成績 】(実働10年) 214試合登板、25勝36敗、16S、防御率4.23

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ミスが出ては勝てない。史上初、4年連続決勝戦への進出を目論んだ駒大苫小牧が初戦で広陵に4-5と敗れた。凹んだ気分を変えるべく、ボクの中でのベストゲームについて触れようと思う。別にネタに困っている訳ではないけど、懐かしさを共有したく昨年アップした記事を一部加筆・訂正して再掲載する。

死闘、延長18回1979年(昭和54年) 61回目の夏、星稜3-2のリードで迎えた延長16回裏2死。箕島の6番森川が放った打球は一塁側ファウルグラウンドの夜空に力なく浮かんだ。歓声と悲鳴がどよめく中、一塁手加藤がカクテル光線の中に揺れる白球を追いながら後退する。誰もが終わったと思った瞬間まさかの転倒、白球は無情にも乾いた地面に転がった。

延長18回の死闘を演じた箕島対星稜戦。ゲームは互いに譲らず12回表に星稜が1点入れると箕島はその裏2死から1番嶋田のホームランで同点に追いつき、16回表星稜が1点を挙げて再び突き放したその裏、簡単に2死まで追い込まれた箕島ナインが敗戦を覚悟しながら打球の行方を追った後に生まれた余りにも有名なシーンである。

生き返った森川は5球目を叩き、ホームランでまたまた同点に追いつき、再試合を目の前にした18回裏、1アウト一二塁で5番上野がレフト前ヒットし箕島が劇的なサヨナラ勝ちを収めた。こうして3時間50分に及ぶ世紀の一戦は幕を降ろし、その勢いで箕島は春・夏連覇の偉業を見事達成した。長いこと甲子園を見続けているボクにとって最も深く記憶に残るゲーム。「こ、甲子園にはやっぱり魔物がおる!」と思い知らされたのだった。

「プロ野球は観ないけど、高校野球は大好き」という人がボクの周りに結構いる。打球を追うひたむきな姿、後がない1戦1戦の真剣勝負、郷里の期待を背負い戦い合う様は時に見る者へ感動を与え涙さえ誘う。いくつも重なる甲子園ならではの“筋書きのないドラマ”に引き込まれてしまうからだろうか、日本にしかない独特なこの野球文化の祭典がボクも大好きである。

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太田 幸司 (おおた こうじ)

いよいよ、第89回全国高校野球選手権大会が開幕した。試合を見れぬとも熱戦の火蓋が切られただけで否応なしにテンションが上がる。さて、何を書こうと考えた末 つい先日 三沢の方に出張して来たので、それにちなみ一人の選手を取上げる事に決めた。今や伝説となっている“甲子園のアイドル”である。

太田幸司1952年(昭和27年)、青森県三沢市生まれ。三沢高校時代、エースとして1968年(昭和43年)夏、翌年の春・夏と3度甲子園に出場。最後の夏には東北勢としては戦後初の決勝進出を果たし、松山商業との2日間に及ぶ戦いも一人で投げ抜くが、夢叶わず準優勝に終わった。

投手としての資質も去るながらスター性を高く評価され、同年 ドラフト1位でバファローズに入団。当初、実力よりも人気が先行し1軍に定着できずにいたが、徐々に力をつけ1973年(昭和48年)に6勝を挙げると翌年に10勝、更に翌年には自身最多となる12勝をマークするなど、チームの勝利に貢献する。

しかし、1980年(昭和55年)から3年間無勝利が続くと金銭トレードでジャイアンツへ。僅か1年で鈴木弘規とのトレードでタイガースへ移籍するが、いずれも1軍のマウンドを死守できず、1984年(昭和59年)のシーズン終了後にユニホームを脱いだ。引退後は解説者やスポーツキャスターとして活躍している。

【 生涯通算成績 】(実働15年) 318試合登板、58勝85敗、4S、防御率4.05

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「夏の甲子園」の組み合わせ抽選会が行われ、我が地元北海道代表の一つ、駒大苫小牧の初戦の相手が広陵に決まった。奇しくも昨秋のドラフト会議でファイターズが1位指名したマーくんの母校と、ハズレ1位で入団した吉川の母校との戦いになる。考え過ぎかもしれないが、何とも不思議な巡り合わせだ。

よもやの3タテ昨日、その吉川が先発したが、またまた敗戦。頼りの投手陣も崩壊しマリーンズに3タテを喫した。遠征が厳しいという状況は理解できるが余りにも痛い連敗だ。これで日曜日の連勝も「12」でストップ、ジンクスもついに途絶え、ここ数日の天気のようにめっきり気分も晴れない。

球宴明け11試合で3勝8敗、7月6日から1ヶ月守り続けてきた首位の座をホークスに譲ったあげく、一時は2位に最大4.5ゲーム差をつけていた状態から、3チームが1.5ゲーム差の中でひしめき合う“混パ”を演出してしまった。それ程、現状での順位こそ気にはならないが、負け方にちょいとした不安を覚える。

前回首位で折り返した1998年(平成10年)は、前半戦2位のライオンズに10ゲーム差以上をつける独走状態でありながら大失速の果て、終わってみれば67勝65敗3分で2位に甘んじたが、力まず、自然体で行けば大丈夫。今のチームには昨年の“経験”という財産がある、「早い段階でチーム状態が悪くなったのはむしろ幸いなのだぁ!」と拳を固め、無理に思い込む。

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江本 猛紀 (えもと たけのり)

先日、タイ代表総監督に就任し注目を浴びた人物である。現役時代は細く長い腕をスリークォーター気味に力なさげに振り下ろす独特なフォームが印象的で、東映で伸び悩む姿を目に留め獲得を提言した野村監督とバッテリーを組み南海時代は3年連続開幕投手を務めるなどエース級の投手へと成長した。

江本猛紀1947年(昭和22年)、高知県高知市生まれ。高知商業時代、選抜甲子園へのチケットを手にするも部員の不祥事で出場を辞退。しかし高い評価を得て西鉄に指名されるがこれを拒否し、法政大を経て熊谷組に進み1970年(昭和45年)にドラフト外で東映フライヤーズに入団する。

1971年(昭和46年)に佐野と共に高橋との交換トレードで南海へ移籍し、1973年(昭和48年)のリーグ優勝にも貢献したが、それから2年後のオフに江夏・望月との交換トレードで長谷川・島野・池内らと共にタイガースへ移籍し1年目から15勝9敗 防御率3.75の成績を残し以後4年連続2桁勝利をマークした。

しかし、1981年(昭和56年)、降板後に暴言を吐いたとして謹慎処分となりそのまま任意引退となる。その後は解説者を務める傍ら「プロ野球を10倍楽しく見る方法」など出筆し、書籍と併せレコードもヒットさせるなどマルチな才能を見せた。1993年(平成5年)にはスポーツ平和党から出馬し当選。一昨年からクラブチーム「京都ファイアーバーズ」の監督も務めている。

【 生涯通算成績 】(実働11年) 395試合登板、113勝126敗、19S、防御率3.52

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めでたい事に今回の記事で丁度500本目の節目を向えた。このブログを初めて足掛け2年弱、おおよそ700日にして500本だから更新率 実に.714。「最近さぼり気味の割にはなかなか良い数字を未だキープできてるじゃないのぉ、エエッ」と何を比較対照にしているか解らないが、意味もなく妙に満足している。

工藤、最高齢記録達成さて、何か物事をコツコツと長く続けるのは容易いようで結構大変なものだ。短命と言われる現役生活論を一蹴し今も尚20年以上のキャリアを積み一戦で活躍するベテラン選手が何人かいるけど、その筆頭に挙げられるのが、“ハマのおっさん”ベイスターズの工藤公康だろう。

昨日のゲーム、ボクより年上の44歳にしてジャイアンツを相手に途中降板するアクシデントに見舞われながらも、シーズン4勝の最高齢記録を達成。1948年(昭和23年)、阪急に在籍し後に高橋ユニオンズや国鉄スワローズでも監督を務めた浜崎真二が46歳で3勝を挙げた勝ち星を59年ぶりに上回った。

次から次へ同世代の選手が引退し、コーチや監督など指導者に収まって行くと「自分も立派なおっさんなのだ」と否応なしに思い知らされる。実年齢、体力年齢、精神年齢、見た目年齢など、年齢にも色々あれどプロの世界において一番重要なのは体力年齢。その若さを更に維持し、ボクら中年に勇気を与えるためにまだまだマウンドにしがみついて欲しいものである。

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