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フランク・オーテンジオ
(Frank Joseph Ortenzio Jr.)


すっかり忘れていた。このカテゴリーに触れるのは実に9ヶ月ぶりになる。急に書こうと思い立ったのは、久しぶりに読んだ漫画「あぶさん」の中に躍動する姿を見たからで、決してネタに困った訳ではない。珍しい漢字による登録名のせいで記憶に残っている方も少なくないだろうが、かくゆうボクもその一人である。

王天上1951年、アメリカ・カリフォルニア州出身。低迷する元凶の一因である貧打改善の起爆剤を求めていたところに、僅か9試合ながらロイヤルズでプレーした経験に加え、3Aデンバーで43本塁打、126打点で二冠を獲得した実績が目に留まり、1979年に南海ホークスに入団する。

オープン戦参戦1試合目にいきなり2本塁打5打点と大暴れしたのを機に、翌日 球団から「世界の王選手よりも上を行って欲しいッ!」という願いが込められた改名(オーテンジオ=「王天上」)が発表され、結果、7試合で打率.385、5本塁打をマークし首脳陣を喜ばせたが、公式戦では23本塁打を放つも打率.248という物足りない成績に終わり、周囲の評価を二分した。

球団も華々しく売り出した以上、簡単には引けず2年目の奮起を大いに期待したが、5月に首筋を痛めファームへ落ち本来の調子を戻せずまま36試合7本塁打で前期を終了すると、すぐさま外国人枠3人の中に練習生の台湾出身 高英傑投手が登録。任意引退扱いにされ、志半ばで帰国の途に着いている。

【 生涯通算成績 】(実働2年) 149試合出場、122安打、30本塁打、70打点、打率.250

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デイヴ・ヒルトン
(Dave Hilton)


スワローズのオールドファンには忘れられない初優勝をもたらした「使者」である。ベースに被さるように極端に背中を屈め、ストライクゾーンを狭める打撃フォームが特徴的で、ボテボテの内野ゴロでも時には果敢に一塁へヘッドスライディングを試みるなど、常に気迫溢れる全力プレーが売り物の選手であった。

ヒルトン1950年、アメリカ・テキサス州出身。ライス大学からパドレスに入団したが在籍5年間で思うような成績を残せず1978年、テストを受けるために来日し春季キャンプへ参加。一発長打を秘めた打力と堅実な守備が広岡監督以下首脳陣に認められ、スワローズの一員になる。

1年目より主に1番を打ち、開幕から首位打者を争う程の活躍で打率.317をマーク。スワローズの球団創設初優勝と日本一に大きく貢献するも、翌年、打率.258と低迷したうえに前年の成績を盾に“特権”を主張したためオフに自由契約となり、その後ブレイザー監督の獲得要請によってタイガースに移籍した。

しかし、同年ドラフト1位で入団した岡田がおり、ファンはルーキーの起用を強く希望。打撃不振に加え、ヒルトンに拘ったブレイザーがマスコミから総攻撃を受けフロントとも衝突した影響もあって、結局監督と前後しシーズン序盤で解雇される。帰国し暫くは3Aでプレーしていたが、引退後は1Aの監督を勤めツインズのスカウトなどを歴任、若手の育成・発掘に尽力していた。

【 生涯通算成績 】(実働3年) 251試合出場、276安打、38本塁打、128打点、打率.284

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ジム・パチョレック
(James Joseph Paciorek )


出場停止期間を3ヵ月から1年間に延長すればホークスの契約が優先とする判断を受け入れると抵抗するバファローズ。退くに退けない気持ちは解らんでもないが、同じ金をかけるならばこれから紹介するような格安且つ有能な選手を探してみてはどーだろう。もっともこの時期だと難しいかもしれないが…。

パチョレック1960年、アメリカ・ミシガン州出身。ミシガン大学在学中には日米大学野球選抜で来日を経験する。1982年のドラフト会議で8位指名されブリュワーズに入団し、1987年にようやくメジャーリーグに昇格し48試合出場するも翌年ホエールズから声がかかると迷わず来日した。

1年目から打率.332、翌年も打率.333の好成績を残し2年連続で打率部門の2位となり、3年目には打率.326で首位打者のタイトルを獲得する。4年目も打率.310を残すが、それまでの成績を下回ったという厳しい判断が下されホエールズから契約を打ち切られると、オマリーの誘いもあってタイガースに移籍した。

移籍1年目も安定したバッティングを披露し優勝争いに貢献、打率.311をマークしベストナインとゴールデングラブ賞にも選ばれる。しかし翌年、開幕から不振が続いたばかりか動体視力の低下や腰痛のため2軍に落ちると、自ら球団に申し出てシーズン中に退団した。帰国後はメジャー復帰を目指すが叶わずそのまま現役生活に別れを告げた。まだ34歳という若さだった。

【 生涯通算成績 】(実働6年) 698試合出場、842安打、86本塁打、431打点、打率.315、首位打者1回、最多勝利打点2回

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グレゴリー・ウェルズ 〈ブーマー〉
(Gregory Wayne Wells)


正月休み中、つけっぱなしのTVにお笑いコンビ「BOOMER」の姿を見つけた。「おっと、まだ頑張っていたんだなぁ、この二人」などと感慨に耽って見ていると、もう一人の“ブーマー”が頭に浮かんだ。『ブームを呼ぶ男』になるようにと名付けられたその想いに応え10年間余りある活躍を見せ続けた助っ人だった。

ブーマー1954年、アメリカ・アリゾナ州出身。アリバニ大ではフットボールの選手を目指していたが、NFLの入団テストに惜しくも不合格となり仕方なく大リーグのパイレーツ傘下のマイナーチームと契約し野球界へ。その後、ブルージェイズとツインズの両球団でメジャーの経験を重ねた。

しかし、通算打率.228と一向に開花できず、1983年に新天地を求めて日本へ渡りブレーブスに入団すると、いきなり1年目から打率.304、17本塁打の成績を残し、翌年には打率.355、37本塁打、130打点をマークし外国人選手初となる三冠王を見事獲得、同年チームのリーグ優勝もあってMVPにも選ばれた。 

1987年に再び打点王、1989年には首位打者と打点王の2冠を獲得。40本塁打以上を3回、100打点以上を5回と、外国人選手には珍しく三振が少ないしなやかなバットコントロールで安打と本塁打を量産する。1992年にホークス(ダイエー)に移籍し、97打点で打点王に輝くもこの年限りで退団し帰国した。現在はエージェントとしてアメリカと日本の橋渡し役を担っている。

【 生涯通算成績 】(実働10年) 1148試合出場、1413安打、277本塁打、901打点、打率.317、首位打者2回、本塁打王1回、打点王4回、MVP 1回

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トーマス・ユージーン・マーチン
(Thomas Eugene Martin)


一番高木が塁に出て~♪。ジャイアンツのV10を阻んだ与那嶺ドラゴンズの快挙を祝うかのように当時発売されたレコードの唄い出しだが、今回触れるのはこの曲の中でも4番打者として登場する選手である。G党だった親父が「記念だ、記念っ」と言いながら何故かそれを買ってきた日のことを思い出すなぁ。

マーチン1947年、アメリカ・ジョージア州出身。ドウティ高 から1965年ドラフト3位でワシントン・セネタースに入団するも下積みを重ね、1968年に晴れてメジャーへ昇格する。しかし出場は主に代打であり、僅か9試合で4安打 1本塁打 1打点 打率.364の結果を残すに止まった。

1974年、新天地を求めてドラゴンズに入団すると、打率.269ながらいきなり35本塁打・87打点の高記録でチームの20年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献する。その後もコンスタントに期待にそう成績を残し、1976年には自身最多となる40本塁打・104打点をマークするなど、中軸を担う重責を充分に果たし続けた。

1978年、初めてフル出場し33本塁打・84打点を叩き出すが、同年オフにホエールズに移籍する。翌年、ここでも28本塁打・83打点という及第点の数字を積むがこの年限りで退団し帰国の途に着いた。1試合2本塁打以上を年間10度記録するなど固め打ちが得意で打率の割には強い印象を与える選手だった。

【 生涯通算成績 】(実働6年) 746試合出場、698安打、189本塁打、498打点、打率.272

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マット・ウインタース
(Matthew Littleton Winters)


「おっと、このカテゴリー、7月から全然手つけてないじゃん」てなことで久しぶりに触れてみたいと思う。ファイターズファンのボクとしてはセギノールの後釜が大いに気になっているのだが、「過去、我がチームにはどんな助っ人が在籍してたかなぁ?」と思いを巡らせ頭に浮かんだ一人が今回紹介する選手だった。

ウインタース1960年、ニューヨーク州生まれ。1978年ドラフト1位でヤンキースに入団するが、守備力が足かせとなりヤンキースやホワイトソックスの傘下でマイナー生活を送る。一時はロイヤルズでメジャー昇格を果たすがそれも長く続かず1990年、新天地を求めファイターズに入団した。

オープン戦で結果を残せず早くも進退の岐路に立たされるが、なんとか開幕1軍を死守すると127試合に出場、35本塁打をマークしチームの勝利に大きく貢献する。その後も持ち前の長打力を発揮し4年連続で30本塁打以上の成績を重ね、プレー以外でもユーモア溢れるパフォーマンスでファンを魅了した。

しかし、5年目のシーズンとなった1994年に130試合にフル出場し打率.260、22本塁打、81打点と、中軸としての期待に応えるまずまずの記録を残しながら退団し、そのまま現役生活にピリオドを打った。引退後は帰国しマイナーリーグのコーチ、スカウトを歴任。現在はファイターズの駐米スカウトに就いている。

【 生涯通算成績 】(実働5年) 637試合出場、612安打、160本塁打、428打点、打率.267

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トニー・ソレイタ
(Tolia Solaita )


今一つ盛り上がりに欠けた球宴も終わり、来週から後半戦が始まる。49勝34敗4分、貯金15で2位マリーンズに3ゲーム差をつけて9年ぶりの首位ターンを果たし、益々期待が高まる我がファイターズ。今回はそのファイターズに過去在籍し「サモアの怪人」と呼ばれていた助っ人強打者について綴ってみる。

ソレイタ1947年、アメリカ領サモア諸島生まれ。ミラコスタ大を経てヤンキースやブルージェイズなどメジャー5球団を渡り歩きプレーするが、実績がありながら32歳にしてわざわざ日本球界へ“コネなし”で単身テスト入団を受けに来日し、1980年に晴れてファイターズへ入団する。

1年目は打率こそ.239と振るわなかったものの45本塁打を放つなど活躍。翌1981年には打率.300、44本塁打、108打点と秀でた成績を残し本塁打と打点の二冠に輝き、同期入団のクルーズと共に19年ぶりとなるリーグ優勝の立役者となるが、シーズンMVPはチームメイトの江夏に僅差で敗れ涙を流した。

1983年にも4年連続30本塁打以上をマークするなど大きな戦力だったが、酒に酔いホテルで暴れた事がきっかけとなり解雇されてしまう。退団するのと同時に現役を引退し故郷へ帰国、政府の教育局体育部で働いていたが1990年、土地の取引をめぐるトラブルに巻き込まれ路上で射殺された(享年43)。

【 生涯通算成績 】(実働4年) 510試合出場、479安打、155本塁打、371打点、打率.268、本塁打王1回、打点王1回、最多勝利打点1回

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アニマル・レスリー
(Animal Lesley )


僅か2年しかプレーしなかったにも関わらず強烈な印象を残した選手である。上背を生かしたダイナミックな投球フォームから投じられた球には迫力を感じたものだ。マウンド上で雄叫びを上げたり、歩み寄る捕手の藤田をボコボコ殴ったり、登録名通りの荒々しいパフォーマンスを売り物にファンを楽しませた。

アニマル1958年、カリフォルニア州生まれ。本名はBradley Jay Lesley(ブラッドリー・ジェイ・レスリー)。1982年から1985年までの4年間、シンシナティ・レッズ、ミルウォーキー・ブリュワーズに在籍。54試合に登板し1勝3敗6セーブの成績を残し、翌年の1986年にブレーブスに入団する。

スライダーを武器にストレートを速く見せるピッチングが冴え、来日1年目から19セーブを挙げチームの勝利に貢献。6月には西宮球場の歴史上最高記録となる4万人を集める人気ぶりを発揮し創立50周年を迎える球団関係者を大いに喜ばせた。しかし、翌年5セーブに終わると解雇され、そのまま引退する。

引退後は帰国せず、そのまま日本に残り同僚の福本が名付けた“亜仁丸レスリー”という芸名でタレントとして活動。強面ながら愛嬌のあるキャラクターとしてビートたけしのもとで活躍しTBS「風雲!たけし城」のレギュラー他、CMや映画などにも出演し人気を博した。現在は日本人の妻とロサンゼルス住んでいる。

【 通算成績 】(実働2年) 60試合登板、7勝5敗、24S、防御率3.00

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ドン・ビュフォード
(Donald Alvin Buford)


ファイターズのセギノールが日本新記録となる通算7度目の両打席本塁打を達成した。セギノール同様、過去にスイッチヒッターの助っ人が何人か来日しているが、なぜか直ぐに頭に思い浮かんだのが今回紹介する選手だった。プレースタイルを余り覚えていないのに独特な風貌だけが深く記憶に残っている。

ビュフォード1937年、アメリカ・テキサス州生まれ。ロサンゼルス大学を経てホワイトソックスに入団。その後移籍したオリオールズでは3年連続ワールドシリーズに出場し1971年には日米野球で来日する。攻走守全てに優れ、ひと足早く日本のファンに強く印象付ける活躍を見せた。

2年後の1973年、西鉄が球団経営を放棄し誕生した太平洋クラブライオンズから補強の目玉として声が掛かり、再び日本の地に降り立つ。初出場したゲームでは、いきなり派手なサラナラ本塁打デビューを飾ると、1年目からフル出場し打率.242ながら114安打を放つ勝負強さでチームの勝利に貢献する。

2年目には張本に敗れるも打率.330でリーグ2位の成績を残し3年目には来日後自己最多となる140安打をマーク、中軸の役割を果たし続けた。4年目の1976年にはホークス(南海)に移籍したが、思うような結果を出せず1年限りで退団し帰国の途に着く。現在はワシントン・ナショナルズのコーチ。息子のデーモンも2000年にシカゴ・カブスの一員として来日している。

【 通算成績 】(実働4年) 490試合出場、480安打、65本塁打、213打点、打率.270

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ラルフ・ブライアント
(Ralph Wendell Bryant)


ファイターズの話題に触れようとすると涙が溢れてくるので現実逃避を決め込み、また関係ない話である。前回のデストラーデ同様、こんな助っ人がいたら ありがたいったらありゃしないだろうなぁ。バットを膝でいとも簡単にへし折るわ、ドームの天井に打球をぶつけるわ、実力と併せ何かと話題の多い選手だった。

ブライアント1961年、アメリカ・ジョージア州生まれ。ボールドウィン農大から1981年ドジャースに入団するもマイナーとの往復を余儀なくされ、1988年に友好関係にあったドラゴンズ入団する。しかし一軍登録の外国人枠2名に郭とゲーリーがいたため、そのまま二軍で燻る事になった。

そこへ大麻不法所持により逮捕されたデービスの穴を埋めるべくバファローズが獲得を打診し、同年6月に金銭トレードが成立。途中入団で僅か74試合の出場にも関わらず34本塁打を放ち、翌年には49本塁打、121打点で初の本塁王のタイトルを獲得し、リーグ優勝に貢献。シーズンMVPにも選出される。

1993年には本塁打・打点の2冠を達成し、翌年も3度目となる本塁打王に輝いたが、1995年にケガで48試合の出場に止まるとそのオフに解雇された。引退後は帰国するが、2005年には仰木監督の招聘でオリックスの打撃コーチに就任。再来日を果たしたものの1年で退任してしまう。「三振かドラマチックなホームラン」、観ていて何とも解りやすく、清々しいかった。

【 通算成績 】(実働8年) 773試合出場、778安打、259本塁打、641打点、打率.261、本塁打王3回、打点王1回、MVP 1回

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