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斉藤 明夫 (さいとう あきお)

戦前の予想を裏切りここまで首位を快走するマリーンズ。今季からその好調のチームを支える一旦となる投手陣の指導にあたっているのが今回紹介する人物である。大洋・横浜大洋・横浜すべての時代で公式戦出場した唯一の選手で、低迷を続ける中でストレートとスローカーブを武器に長きに亘り活躍した。

斉藤明夫1955年(昭和30年)京都府生まれ。花園高校では中堅手として選抜大会に出場。その後阪商業大に進み本格的に投手に転向すると通算30勝17敗、防御率1.70、324奪三振の成績を残し、その評価から1976年(昭和51年)のドラフトでホエールズから1位指名され入団する。

開幕から一軍に登録されローテーションの一角を担い8勝をマークし、梶間、西本らを押し退け見事新人王を獲得。1981年(昭和56年)から抑えに転向し5勝15敗10セーブを挙げ、翌年には当時リーグ最多記録となる30セーブを達成、その後も最優秀救援投手を2度獲得するなど下位に沈むチームを支え続けた。

1988年(昭和63年)には右膝半月板を損傷し先発に再転向し史上3人目の通算100勝100セーブを達成。1993年(平成5年)から投手兼任コーチに就任するも持病の右膝痛が悪化し現役から退いた。引退後は解説者・ベイスターズの投手コーチ等を歴任、今季よりマリーンズの一軍投手コーチに就いている。

【 生涯通算成績 】(実働17年) 601試合登板、128勝125敗、133S、防御率3.52、最優秀防御率1回、最優秀救援投手2回

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鈴木 孝政 (すずき たかまさ)

実に1月以来、このカテゴリーではほぼ2年ぶりの更新である。投手:大谷くんの鮮烈のデビューを見て思い浮かんだ一人が今回の選手だ。山口高志らと並び同時代の速球王を争った記憶が鮮明ながら、ボクの敬愛する長嶋茂雄・一茂親子と公式戦で唯一対戦した投手であることはあまり知られていない。

鈴木孝政1954年(昭和29年)千葉県生まれ。成東高校へ進学後1年からエース&速球投手として鳴らすも銚子商の壁に阻まれ甲子園には出場できず。しかし、1972年(昭和47年)のドラフト会議で当日まで予定していた中根(のちに近鉄)を押しのけ1位指名されドラゴンズに入団する。

150km台の伸びのある快速球を武器に主に救援投手として活躍。入団2年目には35試合に登板しリーグ優勝に貢献すると、その後最多セーブ投手、最優秀防御率と最優秀救援投手を獲得し1977年(昭和52年)にはリリーフ専業でありながら自己最多の18勝をマーク、2度目の最優秀救援投手に輝いた。

しかし、その後3年間 規定投球回数まで届くロングリリーフの蓄積から肘を痛め、技巧派投手として先発に転向。1984年(昭和59年)には16勝を挙げカムバック賞を獲得するも徐々に登板機会が減り1989年(平成元年)限りでユニホームを脱いだ。引退後は解説者、評論家を務め、ドラゴンズの一、二軍コーチを歴任、昨季より同チームの二軍監督に就いている。

【 生涯通算成績 】(実働17年) 586試合登板、124勝94敗、96S、防御率3.49、最優秀防御率1回、最優秀救援投手2回、最多セーブ1回

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北別府 学 (きたべっぷ まなぶ)

本塁上の三角形地点に置いた3個の空き缶を たった3球で全て倒したという抜群のコントロールで打者を翻弄したが、意外にもセ・リーグ最多被本塁打記録(380本)という不名誉な記録を持っている選手だ。中でもドラゴンズには めっぽう強く52勝をマーク、通算213勝は今も尚破られていない球団記録である。

北別府学1957年(昭和32年)、鹿児島県生まれ。都城農業高校に進学し甲子園を目指すも最後まで出場機会を得ることなく涙を飲んだが、2年時の秋季大会で完全試合を達成する等し プロのスカウトの目に留まり、1975年(昭和50年)のドラフト会議で単独1位指名されカープに入団する。

1年目こそ9試合の登板に終わるが、2年目から先発ローテーション入りし3年目に10勝を挙げると、以降11年連続し二桁勝利を達成。1982年(昭和57年)には20勝を飾り最多勝と沢村賞を獲得すると、翌年も最多勝、最優秀防御率、最高勝率、MVP、沢村賞に輝き、チームのリーグ優勝に大きく貢献した。

1992年(平成4年)には、対ドラゴンズ戦で球団史上初にして20世紀最後の200勝投手として名球会入りを果たすが、1994年(平成6年)に肘を痛めそのまま現役生活に別れを告げる。引退後は野球解説者に就任し一時期(4年間)カープの投手コーチを務め、現在は解説者の傍ら野球評論家を務めている。

【 生涯通算成績 】(実働19年) 515試合登板、213勝143敗、5S、防御率3.67、最多勝2回、最優秀防御率1回、最高勝率3回、MVP 1回、沢村賞2回

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伊良部 秀輝 (いらぶ ひでき)

日米で活躍した伊良部がロス郊外の自宅で死亡した。死因は自殺と見られている。マリーンズ時代には当時最速となる158km/hをマーク。華々しく活躍する一方で降板指令に怒りグローブをスタンドに投げ入れたり、暴行や飲酒運転等のトラブルも多く、“やんちゃ”なイメージがつきまとう選手だった。

伊良部秀輝1969年(昭和44年)、沖縄県宮古島市生まれ。幼少期は兵庫県で育ち中学卒業後に香川県へ引越し尽誠学園高校に進学。1986・87年(昭和61・62年)には2年連続で夏の甲子園に出場し脚光を浴び、その秋に開催されたドラフト会議で1位指名されマリーンズに入団した。

高卒ルーキーながら直ぐに1軍のマウンドを経験し抑えや先発で投手陣を支え続け、7年目の1994年(平成6年)に最多勝と最多奪三振の初のタイトルに輝き、翌年も最多奪三振と併せ最優秀防御率を獲得。1996年(平成8年)のオフにはメジャーリーグへの移籍希望を表明し、晴れてヤンキースに入団した。

1年目こそ5勝に終わるも2年目に13勝9敗という好成績を残しプレーオフ進出に貢献する。その後、エクスポズ・レンジャーズと渡り2002年に肺血栓が見つかり離脱し日本球界に復帰。タイガース入団すると 13勝を挙げリーグ優勝の大きな戦力となるが、翌年オフに戦力外通告を受けユニホームを脱いだ。

現役引退後に再び渡米し起業するも失敗し再度マウンドに。米独立リーグや四国・九州アイランドリーグでプレーし、昨年二度目の引退を表明し野球人生に別れを告げたばかりだった。

【 生涯通算成績<日米> 】(実働17年) 399試合登板、106勝104敗、27S、防御率3.55(日)・5.15(米)、最多勝1回

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長富 浩志 (ながとみ ひろし)

久しぶりの更新、なんと半年ぶりの「球史に残る~」である。

1980年代の後半から北別府、大野、川口らと共に投手王国と言われた投手陣の柱として活躍した選手。全盛期はドラゴンズの小松らと肩を並べMAX150km/hのストレートを武器にスピードガン時代の幕開けを担った速球派の一人であったが、晩年は一転し技巧派としてマウンドに上がり続けていた感が強い。

長富浩志1961年(昭和36年)、千葉県船橋市生まれ。千葉日大一高から国士舘大に進み1983年(昭和58年)にオリオンズからドラフト3位の指名を受けるも拒否し社会人野球へ。3年間の電電関東でのプレーを経て1986年(昭和61年)に再びドラフト会議にかかり1位でカープに入団する。

1年目からローテーションの一角に食い込み8連勝を含む10勝を挙げ、同年のリーグ優勝に大きく貢献、新人王も獲得した。その後も主力投手として2桁勝利を3度マークするなど輝きを放つも30歳を過ぎてから本来の球威が衰え始め1995年(平成7年)、木村拓也との交換トレードでファイターズに移籍する。

更に1998年(平成10年)にホークスに移籍し2連覇に貢献するが2002年のシーズン限りで現役を引退した。その後は二軍投手コーチ、独立リーグ北信越BCリーグの石川ミリオンスターズの投手コーチを経て、四国・九州アイランドリーグの長崎セインツの監督に就き 今季からは三重スリーアローズの指揮を執っていたが成績不振の為、今月(5月)の17日付で辞任した。

【 生涯通算成績 】(実働17年) 464試合登板、77勝77敗、10S、防御率3.94、新人王

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山沖 之彦 (やまおき ゆきひこ)

「史上最高の下克上」と言われた日本シリーズが終わり、いよいよ本格的なストーブリーグが開幕した。我が軍の森本を始め、内川・多村・藤井・細川 等々、FA権を行使する選手が出揃ったが、今回は国内でFA移籍しながら1年で且つ1軍出場のないままに退団してしまった唯一の選手を紹介しようと思う。

山沖之彦1959年(昭和34年)、高知県黒潮町生まれ。中村高校時代にはセンバツで準優勝を飾り、その後専修大学に進学。重いストレートとフォークボールを武器に通算22勝を挙げ1981年(昭和56年)、金村の「外れ1位」ながら即戦力投手として期待されブレーブスに入団する。

1年目から30試合に登板し7勝をマークする等、先発投手の一角として定着し3年目には抑えでリーグ優勝に貢献。1987年(昭和62年)には19勝でリーグ最多勝を挙げその後も投手陣の柱として活躍するも徐々に登板機会が減り、1994年(平成6年)オフに新天地を求めFA権を行使しタイガースへ移籍した。

しかし、故障の影響から開幕から2軍での生活が続き、“一度も1軍のマウンドに上がることなく”その年のシーズンオフに自由契約を言い渡され潔くユニホームを脱いだ。引退後は解説者に就き関西を中心に活躍する傍ら、2003年(平成15年)からNTT西日本の硬式野球部の臨時投手コーチも務めている。

【 生涯通算成績 】(実働14年) 327試合登板、112勝101敗、24S、防御率3.92、最多勝1回、最優秀救援投手1回

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井上 弘昭 (いのうえ ひろあき)

いよいよ最終局面、2位のタイガース・ジャイアンツに2.5ゲーム差をつけ一歩リードするドラゴンズ。今回はそのドラゴンズに一時在籍していた選手を紹介しようと思う。がっちりした体格から「ポパイ」という愛称で呼ばれ、攻守共に闘志を剥き出しのプレーで人気があった。通算137死球は歴代4位の記録である。

井上弘昭1944年(昭和19年)、大阪市生まれ。北陽高校から電電近畿に進み、1967年(昭和42年)のドラフト会議でカープに1位指名され入団する。豪快なバッティングから即戦力として期待されるも1年目は主に守備要員として僅か35試合の出場に止まり、不本意なままシーズンを終えた。

2年目より外野の一角を担うが山本浩二の入団等もあって徐々に控え暮らしが増え、1973年(昭和48年)に川畑との交換トレードでドラゴンズに移籍。持ち前の勝負強さで3番バッターとして翌年のリーグ優勝に貢献すると、1975年(昭和50年)には僅差で2位に甘んじるも元同僚の山本と首位打者争いを演じた。

1981年(昭和56年)には、冨田・大島(秀)との2対1のトレードでファイターズに渡り19年ぶりのリーグ優勝に再び貢献。1984年(昭和59年)に現役引退後、翌年 ライオンズのコーチに就任するも右の代打不足から現役に復帰する事になるが10試合のみの出場で正式に引退し、ドラゴンズの1・2軍のコーチを経て現在は中日スポーツの野球評論家として活躍している。

【 生涯通算成績 】(実働18年) 1531試合出場、1058安打、155本塁打、517打点、打率.259

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遠藤 一彦 (えんどう かずひこ)

今日、ベイスターズの若林オーナーが最下位に沈む状況でありながらも尾花監督の来季以降の続投を明言した。期待された投手陣の再建も三浦の不調や寺原の故障などもあって厳しい状況にあり、「もう一人計算できるピッチャーがいたらなぁ…」と思い、ふと頭に浮かんだのが今回紹介するOB選手だった。

遠藤一彦1955年(昭和30年)、福島県生まれ。学法石川高校から東海大学に進み通算28勝5敗、防御率1.11、200奪三振という非凡な数字を記録。1977年 (昭和52年)のドラフト会議で3位指名を受け翌春より本拠地を移転し新たなスタートを切る横浜大洋ホエールズに入団する。

1年目にシーズン終盤にプロ初勝利を挙げると、翌年ドラゴンズの藤沢に新人王を奪われるも12勝12敗8Sの成績をマーク。その後、1983・84年(昭和58・59年)と2年連続最多勝を飾る等、 2桁勝利を6度記録し、平松の201勝、秋山の193勝に次いで生え抜き投手としては球団歴代3位となる134勝を残した。

1992年(平成4年)、「ホエールズと共に去るのも絵になる」と言い残し“横浜大洋”の終幕と共に現役を引退。一度退団し解説者を経験し、2軍の湘南シーレックスと1軍投手コーチを歴任、現在は再び解説者に就いている。「解っていても打てない」と恐れられていた全盛期のフォークボールはホント圧巻だった。

【 生涯通算成績 】(実働15年) 460試合登板、134勝128敗、58S、防御率3.49、沢村賞1回、最多賞2回

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松本 匡史 (まつもと ただし)

ファイターズの絶不調から一時目を逸らし、約4ヶ月ぶりに「球史に―」なのだ。昨日、左太腿裏を痛めて1軍登録を抹消された松本だが、ボクの中では「巨人の松本」と言えば走塁の際砂が入るのを防ぐために上下が一体になった特注ユニホームをまといグラウンドを駆け巡っていた「青い稲妻」の方なのである。

松本匡史1954年(昭和29年)兵庫県尼崎市生まれ。報徳学園から早稲田大学に進み持ち前の脚力でリーグの盗塁記録を塗り替える活躍を見せチームの優勝に貢献。卒業後は日本生命に進む予定だったが1976年(昭51年)のドラフト会議でジャイアンツから5位で指名され入団する。

入団当初は右打だったが、1980年(昭和55年)よりスイッチヒッターに転向し翌年から俊足の外野手として柴田の中堅と1番打者を共に引き継いだ。1982、83年(昭和57、58年)には盗塁王を獲得。特に83年には金山次郎(ロビンス)の持つ記録を実に33年ぶりに破るリーグ最多の76盗塁をマーク。70盗塁を残したカープの高橋慶彦と最後までハイレベルな争いを演じた。

1981年(昭和56年)から3年連続ゴールデングラブ賞を受賞するが、その後ドーム球場の完成に伴う強肩外野手の補強策から事実上戦力外となり1987年(昭和55年)限りでユニホームを脱いだ。引退後は解説者を経てジャイアンツの守備走塁コーチ・2軍監督・スカウトを歴任、2006年には野村監督の下イーグルスでヘッドコーチを務めたが現在は再び解説者に就いている。

【 生涯通算成績 】(実働10年) 1016試合出場、902安打、29本塁打、195打点、打率.278、盗塁王2回

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関本 四十四 (せきもと しとし)

更新が滞っているせいもあるけど、このカテゴリーの記事を書くのは ほぼ5ヶ月ぶりになる。「さて誰にしよう?」と考えていたところ昨日 会社の同僚が“44”歳の誕生日を迎えたということである選手を思い出した。もの凄い強引ながら「44」の数字で連想する選手と言えばこの人、一時期光を放った投手である。

関本四十四1949年(昭和24年)、新潟県糸魚川市生まれ。糸魚川商工時代から伸びのあるストレートの評価が高く1968年(昭和43年)、ドラフト10位でジャイアンツに入団するが、3年間は打撃投手同然の扱いを受け一軍登坂のない日々を重ねた。(同期にはスワローズの高田監督らがいる)

4年目の1971年(昭和46年)に川上監督の目に留まり背番号を「53」から「20」に変更されローテーションに定着すると10勝、防御率2.28をマーク。最優秀防御率を獲得し若松との新人王争いを制する。しかし、1976年(昭和51年)には加藤初、伊原とのトレードで太平洋に移籍。1977年(昭和52年)にはホエールズへ再び舞台を移すも未勝利のまま翌年ユニホームを脱いだ。

引退後は野球解説者を経て1986年(昭和61年)から6年間ジャイアンツの1軍投手コーチに就き一度退団し現場を離れる。その後、2004年に今度は2軍の投手コーチとして復帰。2006年からは3度目の評論活動を開始し現在に至るが小気味の良い解説で個性を発揮、人気を博している。名前の「四十四」は、関本の父が44歳の時に生まれたことに由来しているらしい。

【 生涯通算成績 】(実働11年) 166試合登板、27勝41敗、1S、防御率3.14、新人王、最優秀防御率1回

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